シャンゼリゼ通りのような活気に満ちたプロムナードに!

─通称「マッカーサー道路」─(東京都)

環状第二号線 新橋・虎ノ門地区

街路築造工事及び電線共同溝設置工事
(環状第二号線 新橋・虎ノ門地区)

この地区は、港区の北部に位置し、都市計画道路環状第2号線(新橋~虎ノ門:延長約1.35km)を中心とした約8.0haの区域です。環状第2号線は、赤坂などの都心を通る大動脈として、都心部の交通渋滞の緩和を図るとともに臨海部を含む沿道の開発を誘発するなど、都市再生の基軸となる路線です。
2020年東京五輪では競技場が集まる湾岸地区と、メーンスタジアムの新国立競技場を結ぶ「オリンピック道路」としての用途も期待されています。

幻の「マッカーサー道路」

環状第2号線は、第二次世界大戦終戦直後の1946年、戦災復興院が都市計画道路として整備を決定し、当初の計画では、神田佐久間町から赤坂・四ツ谷を経て新橋に至る約9.2km、幅100mの道路としたのが始まりです。
連合国軍総司令部(GHQ)が、虎ノ門の米国大使館と湾岸エリアをつなぐ軍用道路の整備を計画したとされ、「マッカーサー道路」と呼ばれるようになりました。1950年には、道路幅が40mに縮小されました。
その後、新橋~虎ノ門の約1.4km区間は用地取得が難航し、未整備区間となっていましたが、68年を経てようやく完成しました。

オープンカフェのあるプロムナードに

2014年3月29日に環状2号線の新橋・虎ノ門間1.4Kmが開通し、当社は、開通区間の内、柳通りから愛宕通りまでの約540mの地上部道路を施工しました。地上部道路の愛称は、「新虎通り」です。

環状第2号線立面図

環状第2号線立面図

車道部分は、表面に遮熱材(太陽光を反射する特殊顔料を混合した樹脂)を塗布することにより、路面温度の上昇を抑制する遮熱性舗装になっています。歩道部分は、仮舗装の状態で、今後、レンガ舗装と自然石舗装で施工することが決まっていて、当社が現在工事を進めているところです。

遮熱性舗装のしくみ

遮熱性舗装のしくみ

新虎通り

新虎通り

(車道部分)

(車道部分)

発注者の東京都では、この地上部道路にオープンカフェなどを展開し、パリのシャンゼリゼ通りに匹敵するような美しく、活気に満ちたプロムナードにする計画をもっています。

新虎通り歩道整備のイメージ

新虎通り歩道整備のイメージ
(出典:東京都都市整備局)

新橋・虎ノ門界隈の歴史

この地は、江戸時代、徳川家に近い譜代大名の武家屋敷が集まっていました。新橋赤レンガ通りは、「愛宕下大名小路」と呼ばれ、田村右京太夫(奥州一関藩)の上屋敷がありました。1701年、江戸城松之廊下で刃傷沙汰を起こした播州赤穂藩主の浅野内匠頭が、この屋敷の庭でその日のうちに切腹させられた話は有名です。新橋4丁目の交差点近くに「浅野内匠頭終焉之地」の石碑が建立されています。
赤レンガ通りとマッカーサー通りの交差する地点から少し南寄りには、大正元年から続いている和菓子の「新正堂」があります。内匠頭の切腹に因んだお菓子「切腹最中」という物騒な最中があり、これがサラリーマンの街新橋に意外に受けていて、得意先にお詫びに行く際、これを持参すると本気で怒れなくなるという、嘘のような話です。

「浅野内匠頭終焉之地」の石碑

「浅野内匠頭終焉之地」
の石碑

新正堂「切腹最中」

新正堂「切腹最中」

赤レンガ通り案内板

赤レンガ通り案内板

明治になって、武家屋敷の廃止とともに敷地が払い下げられ、1872年の新橋~横浜間には鉄道が開通し、赤レンガの洋館建設によって「赤レンガ通り」の愛称が生まれました。

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